東北震災から12年、、、

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 東北震災から12年だそうです。

 当日はちょうど豊岡ドクターヘリを担当していた日で、地震が起きたときは事務所で待機中で結構な揺れになって、テレビのない部屋で唯一自分が3万円で買って目の前に置いていた5インチのナビでNHKを受信して様子を見ていました。

 当日のドクターやナースなども小さなテレビに見入って情報を見ていると、相当やばいことになりそうになっってきたのですが、まさか東北までは飛ばないだろうと思っていましたが徐々にもしかしたらとなってきました、

 自衛隊の輸送機で現地へDMATとしてドクターナースが伊丹空港へ目指して出発したのですが、あとで聞いたところ東電の社長が名古屋にいて、自衛隊の輸送機で東京へ帰ることになって、DMATは急遽豊岡に戻り、朝一番にドクターヘリで飛ぶことが決まったのは日付けが変わったころでした。

 自分自身としては後しばらくで退職が決まっている時期に若いころから飛んだ、懐かしい東北方面へ飛べるということで、波乱万丈のヘリパイロット人生の締めくくりとしては大変ラッキーという程度に思っていました。

 とりあえず食べ物はなさそうだと理解し、おにぎり3個とおを茶2本をドアポケットに入れて、24時間過ぎたら食べるかと、薄暗い霧の中を離陸して現地へ向かいました。

 とりあえず家にだけは現場へ行くと連絡して飛び立って、11時には福島、そして午後には仙台の霞の目飛行場に到着して、患者の搬送に当たったのですが、連絡体制が着かないのかほとんど飛ばない状態でした。

 次の日の午前中に突然、当時東京にいた長女から携帯に連絡が入り、「お父さん、原発が爆発するらしいから、そっちへ飛んだらだめだよ」と言ってくれたのには驚いたり感謝したりでした。

 現地の混乱状態の中ではテレビも新聞も見られず電話はほぼ不通状態で、衛星携帯電話だけが頼りで、それも充電が十分できない状態で、しばらくは混乱状態が続きそうでした。

 仙台は朝日航洋、退職直前 3月末に転勤することが決まっていて、家も決め引っ越しの運送屋も決めていたところ、自分が乗るはずだった、仙台の国土交通省のAS332仕事を東邦航空逆転とられて、行き場がなくなってしまったのですが、もし行っていたら家族は死ぬ運命にあったかもしれません。

 ということで、東北 東京、富士山、名古屋など過去の飛んだ地域を退職の修学旅行のように飛べたのですが、さまざまな災害に際して飛び回り最後に一番大きなものに当たるとは運命でした。

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bell214b1989

Author:bell214b1989
35年間のヘリパイロット生活 
最終5年間はドクターヘリでした。

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