ヘリ業界の巨星堕ちる 西川渉さんとの思い出、、、

昨日 私のブログの読者でヘリ業界の大物 西川渉さんの遠縁の方から突然メールをいただいて、2月17日に亡くなられたことを知りました。
もちろん一パイロットと長く重役であられた関係なのではるか雲の上の人でしたが、人生の一コマでは少しのつながりがあり、懐かしく、またご冥福をお祈りしたいと思います。
癌を患って、体調を崩して、有名なホームページ「航空の現代」も更新が止まってはいましたが、HEMNET ドクターヘリの団体ではD-CALL-NETの推進者として頑張っておられるようでしたので私のブログとは天敵の間柄でした(笑)
わたしが自衛隊をやめて、朝日ヘリに拾ってもらった直後、会社は世界最新鋭のベル212を導入し、日本海での石油開発支援のフライトをはじめ、世界のヘリ運航会社に伍していこうとする時期でした。
東大の理系の学部を首席で卒業して、西武流通グループへ堤誠二氏が選んだ大卒エリートグループの一員として入社し、朝日ヘリに転籍して営業課長として石油開発支援の事業を始めて手がけたばかりの新進気鋭のエリートでした。
ちょうどその時期私はヘリのライセンスがないので、212のコパイ、ていの良い雑用がかかりですが、夕方フライトを終えて機体にカバーをかけるのをヘリの屋根に上って手伝っていました。
カバーをかけ終わって屋根から降りるとき、ステップから足を滑らして落ちそうになり、屋根を手で支えようとしたとき、運悪く、カバーの下にあるプラスチック製の窓を突き破ってしまいました。
ちょうど夕方西川さんが現場に見え、苦虫をかみつぶしたような顔での初対面で、以後私の出世の目は立たれたようなものでした。(笑)
入社して2か月、給料5万円、窓の損害額が30万円、部品がくるまで数週間、最新鋭機はガムテープの張った状態で飛びつづけました。
朝日ヘリコプターが西瀬戸エアーリンクで定期便を飛ばし始めたと当時、九州の大分県竹田市へコミュータ航空の講演に出向かれたとき、私はベル206Bをもって遊覧飛行で花を添え、夜間の宴席にも同席しました。
この当時が西川さんのピーク時で、以後ヘリの業績の低迷やのセゾングループの身売りなどでずいぶんと苦労されたようですが持ち前の情熱でドクターヘリの導入を果たされて、また業界のご意見番としてメデイアでも随分と活躍されました。
自分の名前は西の川を渉るだけど、あなたは石の橋が清いのか、、、似たような名前だなと、あまりぱっとしない冗談を言われたことを思い出します。
ご冥福をお祈りします。
スポンサーサイト