阪神淡路大震災から25年、、

神戸空港レポートポイント 038

 上の写真は25年前 震災の火事で燃え盛っていた地域の写真で私は当日この付近を朝10時ころでした。

 2000フイートくらいで1キロ離れて飛びましたが、炎の熱気を感じて近寄れず、燃えた段ボールか何かが無数に、熱気の上昇気流でどんどん上がってきてヘリの近くを通過していくような恐ろしい景観でしたが何か不思議に恐怖は感じませんでした。

 あまりに現実離れした景観なので、まるで戦争で爆撃された戦時中の様子か、映画の中のシーンのようでかえって現実味がなかったのかも知れません。

 長野で殉職した、当時部下であったS君が撮った、倒壊した阪神高速の画像が初めて出たのが8時17分頃で、私が離陸した9時30頃はまだ、淡路島の北部が震源地なので、阪神地域よりもっとひどい被害が出ていると予想して、そちらへ向けて飛んだのです。

 阪神間があまりのひどい被害で一連の撮影に時間を取られて、淡路島へ着いたのはすでに1時間以上過ぎていたと思いますが、到着して被害の少なさに驚いたものです。

 当時 関西電力の業務を一定引き受けていましたので、テレビの取材で飛びながら、淡路島北部の送電線鉄塔の被害状況が気になり、飛んでいました。

 ヘリは当日、吉野で木材を運ぶ予定の204Bで燃料がほとんど空っぽになるまで飛んで1時間40分で着陸しました。

 翌日くらいには京都大学の防災の先生を乗せて。淡路の震源地から断層に沿って京都まで被害状況を調べに飛んだり、激し揺れで碍子が割れて落ちた被害地の京都や六甲の送電線へ碍子を運んだりしました。

 そのフライトから約1年間、最終的には被害を受けた多くの砂防ダムの普及新設工事で六甲山中を332で飛んで終わりました。

 フライトは昼夜を問わず、わが朝日航洋のヘリは25機以上、八尾空港では250機のヘリが集結し、B滑走路を閉鎖して受け入れるように進言したり、元自衛隊陸将の上司の運航役員を元部下の八尾自衛隊の指令と面談して協力を話し合う席に同席したりと普段できない体験を多くしました。

 あの惨状の神戸が5年程度もかからずにとりあえず見かけ回復した日本の底力には驚いたものです。

 去年には歴史ウオークで淡路島の震災記念公園を訪れて当時の様子に触れましたが、25年早いものです。

 

 
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Author:bell214b1989
35年間のヘリパイロット生活 
最終5年間はドクターヘリでした。

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