ハンドルネーム bell214の思い出

https://ja.wikipedia.org/wiki/ベル_214
ドクターヘリに乗り出した2006年ころ ブログを始めたのはドクターヘリの現状などを皆さんに紹介することとヘリパイロットとしての自分史を何らかの形で書いてみたいと思ったということでした。
さてその時にハンドルネームを何にしようかと考えた末、数多い自分の乗って来たヘリや固定翼機の中で一番印象の強い機種名をと言うことでベル214Bと言うのを選びました。
このことはブログを始めた当時記事にしていますので繰り返しにはなりますが、ブログを引っ越したこともあるので再掲します。
214Bは小型のヘリばかり作っていたベル社では当時最大のもので、2950馬力のT55を1200馬力クラスのベル205の機体に乗せた化け物のようなヘリでした。
1974年の入間の航空ショーでは神様と言われた神田パイロットが2,5トンのトラックを吊り下げてデモフライトをしたのが日本でのデビューでした。
私が指名されて乗ることになったのはハンドルネームにあるように1989年で、15年もの間に30機程度日本に入り、半分が墜落し、死者続出と言う惨憺たるものでしたが、業績は日本の原子力につながる大送電線の山岳地帯はほとんど作ったという輝かしいものでした。
15年も過ぎると華奢な胴体に化け物エンジンで。機体各部はガタガタ、仕事の減少に従ってヘリ会社各社はほとんど手放す中、わが社だけが頑張って飛ばしていましたが、主力は330,332にすでに移行し、空飛ぶ棺桶はみな乗りたがらず、新米にお鉢が回ってきたという事情でした。
特に214に乗らなくても204Bで腐るほど飛んでいましたので、断るつもりでしたが、同僚が乗りましょうということで、上五島で訓練を受けて半年後位から仕事を始めた矢先、一緒に訓練した同僚が墜落して殉職してしまいました。
この事故で会社は214をあきらめ、4機か5機残っていたのをまとめてアメリカへ売ってしまいました。
と言うことで自分は訓練を含めて40時間しか飛ぶ機会がなく、あっという間の別れとなりましたが、信頼性はいまいちでしたがヘリとして、航空機としての性能は抜群で、ジェット機と同じような安定性でどっしりと飛ぶさまはヘリコプターとしては異次元のものでした。
重いものを吊ってあたふた飛び回ると、あちこちに亀裂が入ったり、エンジンは何回も止まるは、さんざんなヘリで多くのパイロット整備士が犠牲になった機種でした。
1989年1月から上五島空港で訓練をはじめ、9月に独り立ちして三重県でゴルフ場の電柱の建て込みをやった後すぐに同期が小浜湾へ墜落して乗ることはなくなり、330、332に乗ることになり、あっという間のお付き合いでしたが印象は強烈でした。
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