纏向遺跡 宮殿跡発掘 畿内説に弾み、、、、、、
ヘリコプターのブログに邪馬台国はあまり縁がないのですが、今日はこの話題です。
自分は大阪府の東部の枚岡というところで育ち、ヘリのパイロットとして日本全国中、ほぼ飛び回り、今は近畿のある県のドクターヘリで飛んでいます。
そして今は住まいが大阪府と奈良県の県境にある、大和盆地と大阪平野を前後に見渡せる明神山という山のふもとの団地に住んでいます。
団地の入り口で葛城尼寺という文献でしかわからなかった、法隆寺を上回る規模の尼寺の建物の礎石が発見されてその存在が立証されたのは10年ほど前のことでした。
そして5キロほど北では藤木古墳という、奇跡的に盗掘されていなかった小さな古墳から石棺が見つかって大騒ぎになったところもありました。
そこらじゅう遺跡だらけの奈良盆地の一角に住んでいますし、15年ほど吉野の山々からヘリコプターで銘木を搬出するフライトをやっていたことがあります。
今回、卑弥呼の宮殿ではないかといわれている、纏向遺跡は吉野地方の木材の集散地でもある奈良県桜井市にあります。
つまり 奈良盆地のあちこちに古代の都が作られたのは、奈良盆地の背景に吉野の山々に良質の杉ヒノキが数多く存在していて、都の建築の建材として十分に供給できたという地理的な優位性があったのではないかと想像できます。
今の吉野の山々には当時の杉ヒノキは一本も残ってはいないでしょうが、良質の木材が育つ気候条件と山の地質というものがあればこそでしょう。
自分が吉野の木材をヘリで搬出していたころには樹齢200年くらいのものはたびたびありましたし、江戸時代400年前に植林されたというような山の存在も聞いたことがありました。
纏向遺跡の今回発見された建物が、卑弥呼が宮殿として使われたとしたらその使用された木材は当時は手のついていなかった吉野の杉ヒノキの原生林から伐採して、桜井へ運ばれたのでしょうか。
そして時代が下り、都を京都へ移したということは、背景の吉野の山の原生林はすべて切り倒してしまい、その材料を京都の北山地方へ求めて都ごと移転して往ってしまったのでしょうか。
九州に邪馬台国があるという説もかなり有力なのはやはり日田地方などの杉やヒノキがあればこそなのなのでしょうか。
このように日本の起源は山々の木々の恵みを最大限に活かせる地方にその源があることはどうやらたしかなようです。
日々 山国 日本の上空を飛んでいると、戦後に内地では杉やヒノキ、北海道などでは落葉松や椴松ですが、これらをいっせいに植林された光景が目に入ります。今は見事な緑の山が目に入りますが、実は十分に手入れされていないこれらの山々は木々が千個立ち状態で100年後には崩壊してしまっているでしょう。
日本中の建物が安い外国の木材ばかり使い、国内にある山々の植林地にろくに手入れしないでないがしろにしているような日本の国は、すべての山林をだめにするでしょう。
そしてそのころは邪馬台国が滅び、奈良の都が京都へ移ったように、日本は滅びてしまうのでしょうか。